内村鑑三が無教会主義だとは読んで知っていたけど、この人が作った概念だったのか。スピノザとかもここから後付けで無教会と言う概念を当てはめていたのを読んでいたのかな。でも、もう心を支配されたくないというのは、心の叫びであるかもしれない。一方、教会のような組織には、人々への宗教との縁やパイプとしての働きがあって、そのおかげで救われた人もいるに違いないだろうと、自分の経験から類推する。

自分は、創価学会の家に生まれて、祈っている人の姿や、祈れば願いは叶うのだと言う話の中で育った。しかし、そこに世界観や理論が自分の場合はなかった。それを納得できるように説明できる人が自分の周りにはいなかったんですね。だから祈って叶うのなら努力する必要はないではないかというような、わかりやすい反発の時期があった。

この点は、宗教コミュニティに生まれない人と共通だと思うのですが、仮にクリスマスにパーティーするとか、初詣にいくとか、そういうレベルの宗教との関わりって、自分と同じで理論や世界観は、ぼんやりとしてほぼありません。

高校生を卒業するくらいに、自分はあるきっかけで、日蓮の思想、理論、世界観を学ぶことになるのですが、それは、新しい物の見方、視点が開いていくことでした。それはただの日常で、その存在の可能性に気づくのはとても難しいことだと思います、何かきっかけが必要なことで。神様、天国、地獄みたいな言葉がテレビとかで、出てくるけれど、少しは縁があっても、その実際の世界観みたいなものはかなりぼんやりしている。自分は本当の今日しか、今しか見えてない感じの人だったと思う。本当に考えて領域というのかな、その領域もとても狭かったと思います。

僕は納得したいタイプの人なので、そのあとは、日蓮について、仏教全般についても、その他の宗教についても、あと僕は現代に生きている人ですので、古今東西の哲学の歴史や科学史など、外してはいけない本を言われるものも乱読して自分の限界まで学んだと思います。そこから見えてくるというか、気づけるものもありました。

善悪というのは0%と100%の間にあるものだと思います。自分は、その意味でも良くも悪くも単純に割り切れるものではなくて、でも引き続き少しずつ、あまり他の人に嫌な気持ちにさせないように自分なりに配慮つつ言葉にしていきたいと思います。

僧侶とか牧師さんを否定はしません。ただそういう徳に生きる、生き方を覚悟した人たちだとは、自分は宗教についてある程度、理解しているので、どの特定の宗教を信じていたとしても、その人たちをそう見てはいます。自分にもそのまま跳ね返ってきますが、宗教的なものに関わるからには(特定の宗教ではなくても例えば、小学校の道徳でも崇高といったものは、宗教と関わるところで、数学などを通してもそうかもしれませんが、人は宗教的なものを考えてしまう、関わってしまうものだとも思います)、ブッダやカントや日蓮など、イエスもそうだと思いますが、さまざまな宗教批判から逃れることはできません。僕は、その言動が生き方でその背中で人を導くものなのか見ています。それにしても厳しい見方なのかなとも思うけれど、それを失ったら宗教の意味ないから。単なる商売になってしまう。

 

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