今、振り返ってみると、イエスブッダも宗教を説きながら宗教批判をしている。さらに振り返ると日蓮も池田先生も同じだった(とてもシンプルだけど重要な気づきの一つだと思う)。
宗教には宗教批判がまともであるために必要だと振り返ってわかりました。これがないと宗教はマルクスが指摘するようにアヘンにもなるし、反社会的な存在にもなる。
 
もうちょっと振り替えてみると、まとも宗教者、信仰者は、宗教批判と宗教を説くことをセットで実践している(これはカントの概念を使って一般化できた)。

宗教を学んでみることの意義は大きいなと思う。というのは、マスコミが流す宗教の情報って、ほとんど宗教批判のない狂った信仰者の痛ましい事件がほとんどですよね。これって、とても一面的です。理性的で本当に優れた人格者の人たちもいますし、宗教自体も多様ですし(どの世界宗教も枝割れしていっている)、一つの宗教、一つの宗教団体の中にいる人たちも多様です。

宗教批判というのは、宗教に貫かれているアプリオリな規範、限界を明らかにするということ。