今も昔のインドと変わらない。多くの政治家や職業的宗教家、お金持ちは、権力維持に注力している。
自分の周りにも職業的宗教家がいる。しかし、少し批判すると二度と自分の前には現れなくなってしまった。私は、「にもかかわらず」、自分を救ってくれることを少しだけ期待していたのだが。
自分の心の中には、ヒーローではなくてもロールモデルとなる人はいる。実際にどれだけできるかは別問題だが、自分も少しでもそうありたいとは思う。突き抜けたい。
 
自分が宗教コミュニティに生まれて学んできてよかったことは、(大変だったこともあるのですが)、自分の所属する宗教コミュニティだけではなく、全てのインチキな宗教家の連中を見分けることができるようになったことです。
世界宗教はどれも宗教批判とセットで生まれました。この命題は真です。
仏教(日蓮など)、キリスト教も(キリスト教の中でもプロテスタントも、一神教というくくりならイスラム教も)です。
 自分のインチキさもよくわかっている。でも、「にもかかわらず」自分も生きている限りはよりよく生きたいと願っている。
 
創価学会戸田城聖の晩年はアルコール中毒だったかもしれないとおもう。人間は自制できなけば、悪なんだろうか。私は、少なくともそんなに単純ではないと考えています。なぜなら、善悪も真偽も100%と0%の間にあるからです。
 
テストは学習経験である。
横浜市(他のところもそうなのかもしれないけど)は学力状況テストをして、問題や回答を子どもたちに返さなくなってしまった。本当にアホだと思う(こういう言い方はよくないか。でも本当に酷い。)。
学力の位置だけ分ければいいのか。無駄な時間を過ごさせないでくれ!!
 
自分の教育パタンのマインドセットパウルティリッヒの「にもかかわらず」を追加しました。
この心がなければやっていけないよ。
 
民主主義って、自分たちの成長によって成熟していく。でも、衆愚政治になってしまうことはある。そう考えるとプラトンの考えもわかるな。一部の本当に優れた人が政治を独占すればいいとも少し思ってしまう(哲人政治)。しかし、そこは罠だと思う。そういった優れた人が後世に続くとは限らないという問題が民主主義が衆愚政治に堕ちいってしまうのと同様に起きるのだ。
そこから考えると、この地球で最も根本的に考えを進められたのはカントの流れになると考えます。
キルゲゴールの結論とも同じ。教育しかない。一人一人が成長していく先にしかよりよい世界はない。そうではないのはまやかしであり幻です。
 
といったものの、個々の人の力には頼らないというテクノロジーや構造的な設計で解決しようする思想もあると思う。
少し寂しいとも思うけど、これも必要だと思う、というか、哲人政治に代わるものはここにあるのかもしれない。いや、ここにしかないのもかもしれない。僕たちが多数がブッダやイエスになれますか。
仏教の十界互具論って、全ての人に対して、仏になれ、仏(ブッダ)を目指せという思想なんですよね。それでいいと思うけど、全ての人が自分に勝ってそうなれるのでしょうか。可能性とは別に実際の多くは、そうではないことも考えると、ここに頼らない、テクノロジーや構造的な設計を先に考えることを優先すべきだと考えます。そりゃ、左右田喜一郎。そうだ。人の成長は、その先にゆっくりと。